塾の講師と話をすると、必ず受験で100点を採る必要はない、大事なのは合格点を採ることだ、と言います。

限られた試験時間の中においては、100点満点を目指して難問に時間をかけてはいけない、ある程度合格ラインとなる点数を設定したうえで得点できる問題を確実に採ることが重要。すなわち、時間のかかりそうな難問は捨てろ、ということなので、受験における術としては反論の余地は無いのだと思います。

さらに塾の講師は、学校のテストは100点を採れるように頑張れ、とも言います。そもそも、問題の作り方が異なるらしく、学校のテストは100点が採れるように作成されているのが普通、一方、受験の際の問題は100点は採れない様に作られているそうです。

受験問題の場合には受験生をふるいにかける意味があるので、100点は採れない問題を作る必然性があるのでしょう。同様に、学校のテストに100点が採れる問題を作成する事にも、何らかの意義・目的があるのだと思っています。

最近、同様に『100点を採らない仕事術』もよく目にします。それは、『100点満点を採るためにどうすべきかを考えるよりも、まず動け!』という様な言い回しで使われています。あたかも100点を採ることに意味が無いかのように。

私が気になるのは、どこかで必死に100点を採るためにもがき、苦しむ経験が必要なのではないか、それをいつ経験できるのか?ということです。勉強でも仕事でも、100点を目指すことの価値が失われている様な、あるいはそんな誤解を与えてしまっている様な、そんな気がするのです。

作家の伊集院静氏のエッセーに、以下のような一文を見つけました。

「人生の半分を野球に費やした。あれほどひとつのことに打ち込めたことは、小説以外にはない。声を出し続け、白球を追った日々は、正直、辛かったが、今になって思うと、あの苦しい日々があったから、少々の逆境でも、それがどうした、あの時に比べれば何ということもないぞ、と頑張ることができたのだと思う。」

おそらく多くの方がこれに似た辛い経験を経て、「あの時に比べれば・・・」と立ちふさがる壁に立ち向かっているのだと思います。

私は教育問題に明るい訳ではありません。特に意図して苦難に向かわなくとも、いずれ苦難の方からやってくるものなのかもしれません。初めての苦難との遭遇が早いか遅いかだけの違いなのかもしれません。ただ、親としては、初めての苦難に遭遇した子どもが立ち向かった結果、最悪の事態に陥いったときに、親が受け止めてあげられるうちに、その時が訪れて欲しいと思ったりもします。言うまでもなく、そもそも最悪の事態などにはならずに、しっかりと苦難を乗り越えてくれることが何よりですが。

一生、苦難に遭遇しない人生が良いのかどうかは、よくわかりません。

100点を採ったときの達成感や喜びはもちろん、100点が採れなかったときの悔しさや、そこから学ぶ反省や対策、そんなものの積み重ねが苦難に立ち向かう術のひとつの礎となっているとしたら、100点を目指すことに意義があると言えるような気がします。

PTAや保護者会から少々離れた話題になってしまいましたが、なんとなく書かずにはいられなかったもので。

 

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